Narrative

わが内に獣の眠り落ちしあとも 太陽はあり頭蓋を抜けて

地獄変

傷一つないきれいな文学だと思った。話の展開のいっさいに無駄がなく、しなやかなアスリートの身体を見ているような気がした。これは緻密に練られているのか、芥川の才能なのか、はたまた両方か。

一昨日観たローマの休日も瑕瑾のない作品だったけれど、地獄変はもっと胸に切実に迫ってくるものがある。不躾だけどいつか同じ土俵に立ってみたい。なんなら今すぐにでも立ってやりたい。

高1のとき、古典の授業で絵仏師良秀を読んだ。よくわからない、正直つまらない作品だと思った。それなのに、同じ作品から想像を膨らませてこんな傑作を書けることに圧倒されてしまった。うんうん唸ることしかできない。芥川が友達じゃなくてよかった。もし友達だったら、私は文学の道に進むことをとっくに諦めていたと思う。

ローマの休日

オードリーヘップバーンがかわいいし、名作だから見てみたかっただけ。

 

うまくまとまってて、程よく面白くて、オードリーヘップバーンはかわいかった。古典的名作、とは本当にその通りで、きれいに収まっている作品だと思った。多分逆なんだろうけど、宝塚みたいだと思った。画面も音楽もきれいだった。でもこういう、ただ高水準で抜けがない作品を作るのって難しいんだろうな。だから評価されているんだろうな多分これ、有名すぎて事前にあちらこちらで話の断片を聞きすぎてしまったからこんなあっけない感想になっているんだと思う。おしまい。

オッペンハイマー

観る前は、なんで日本焼いた奴の映画を金払って見なくちゃいけないんだ、と思っていた。しかし、途中からお金払って観にきてよかった、と思うようになった。お金を払わないとみられないような内容だった。この作品が日本の地上波で放送される日はあるのだろうか。

 

全体的にお話は難しくて、特に回想と現実の交錯、見分けのつかない登場人物の名前と顔などに終始振り回されていたが、原爆の実験シーンだけは明瞭に覚えている。

実験が成功したとき、"It worked."と誰かが言った。字幕には"成功だ"とあった。

work、の正しい意味は働く、ではなく滞りなく機能することだ、と高校の英語の授業で言われたことが、ふっと頭に浮かんできたのだ。聞き取れた英語と、日本語と、私のなかの記憶が組み合わさったとき、私は急に怖くなった。異文化を学ぶことに対しおばけのような恐怖心を抱いた。

 

Fear always springs from ignorance. とはよくいったものだ。異文化と対峙したときの私の恐怖心を端的に表してくれる。あの映像の後、スクリーンで笑っているアメリカ人たちは本当に他人だった。

ただ、このアメリカ人の言葉を原文のまま理解できるのは6年間の英語教育のたまものであることも事実だ。

 

私の知っている原爆についての話は、いかに広島と長崎の被害が甚大だったか、皮膚の焼ける様子、一瞬で燃え尽きた市街地の有様、後遺症に苦しむ人々の体験談。。。といった具合だ。アメリカでの開発の裏側なんて、誘われてこの映画を見なければ当然知る由もなかっただろう。興味がない、と一蹴しなくてよかった。

二度と核を落としてはいけないと思っているし、戦争は反対だけど、もしかしたら日本に生まれて、日本の立場から見た戦争を教科書と8月のテレビ番組で刷り込まれたからかもしれない、と少し疑ってしまった。これもまた、今までの日本での教育の遺産なのだろうか。原爆反対という考えはきっと変わらないと思うけれど、自分の信念を疑う機会を持ててよかった。

 

これからさらに大学で日本について勉強する今、観るべき映画だったかもしれない。教育とアイデンティティと異文化理解について考えるきっかけになった。日文コースに進むことは変わらないとしても、少し自分の思想について見直してみようと思った。

 

 

戦争に関連してもう一つ。昨日映画を見る前、今週の水曜日に東京都の戦没者霊園を訪れてみた。遺品とともに持ち主の名前や年齢、遺族のコメントなどが展示されているのだが、私と同年代で亡くなった兵士の多さに驚いた。今の私と同い年くらいで特攻作戦で亡くなった人の遺書には、ずいぶん立派な文章が書かれていた。いくら当時の国の方針と検閲があったとはいえど、あの文章を書くことは苦しくなかったのだろうか。お母さんのこと、恋しかっただろうに。

 

映画を観たりこういった展示を見たりした後は、心が重くなる。金曜の授業で、東京にいるうちに公演や展示に積極的に足を運んで、自分の文章で記録しなさいと言われた。今までやってきたことは間違いじゃなかったんだ、と思うと同時に、これからさらにペースを上げなければ、と思った。オッペンハイマーも、戦没者霊園も東京にいたからこそ享受できた出来事のよい例だ。4年間、文学と表現の道に自分を沈めてみようと思う。なるべく就職なんてせずに、本当にやりたいことができるように。

共テ3日前の気持ち

 

ちゃんと紙に残したいけどする余裕が本当にない。ただ受かっても失敗しても、大事な轍になるのは変わらないからとりあえずここに残しておくね。11月に父と会ったあと数日間は、強く死にたいと思ったんだけど、やっぱりあのとき死んでおけば良かったって1日に何度も今思う。

 

ときどきすっと向こう側に吸い込まれそうになる。寝ることも一息つくことも全部に罪悪感がついて回る。もう終わりにしたい。受験なんて人生の中でチクっといたい注射みたいなものだと信じてるけれど、ただそうやって俯瞰できるほど心が落ち着いていない。とにかくとにかくそう注射なんだって言い聞かせてねむってる。もうamazarashiもあんまり響かなくなってきた。神様にばかり祈ってる。自分じゃどうにもならないって思考に逃げることで、自分の人生と将来に対する重圧や責任感から解放されようとしてる。

 

 

 

 

1/10の23時頃、寝る直前にtwitterの壁打ち垢に書き込んだものを貼り付けた。アカウント消しちゃったときのためにここに転載しておくけど、別に公開するようなものでもない(し文章がかなり酔っててきもい)から後で下書きにしまっちゃうかも。

結局第一志望に受かったからただの注射になった。終わってみて振り返れば、本当に一瞬痛いだけだった。でもよく頑張りました。たしかに共テまでが1番きつかったね。

映画ハイキュー ゴミ捨て場の決戦

 

たった今、ハイキューの映画を観てきた。帰りの車内で執筆している。なぜ、わざわざ地元のつくばではなく、南船橋まで向かったのかというと、友達と4dxで観るためだ。

初めて体験する4dxは、素晴らしいとしか言いようがなかった。ボールの動きに合わせて座席が動くおかげで、私も代々木体育館にいるような感覚を味わうことができた。そんな熱気を感じているうちに、目の前でプレーをしているキャラクター達が羨ましくて仕方なくなっていった。何かに熱中して身体を動かすのって楽しいだろうな、高校3年間を捧げられるものがあるって充実しているだろうな。私も、中高と何かスポーツに打ち込めばよかった......。しかし、ストーリーが進んでいくにつれて、その考えは次第に変わっていった。こんなスポーツもろくにしたことがない人間に、ここまで思わせることのできる作品を提供できる製作陣への尊敬の気持ちが湧いてきたのだ。私も、全然違う人生を歩んできた誰かに、私の世界を見せてみたい。こうやって、都合よく自分の目指すべき姿に思考をチェンジできるのは私の良い部分だと思う。

ただ、コートの中で自在に動く彼らと同じような感覚を味わううちに、羨ましくてたまらなくなってしまったのは事実だ。スポーツを楽しめるだけでなく、ただ、彼らが高校生を謳歌しているだけのことに惹かれてしまった。かく言う私も、世間的にはまだ高校3年生の扱いなのだが、卒業式を終え、卒業プリのために再び制服に袖を通したあの瞬間、【コスプレ】という言葉が浮かんだときのような、ないものねだりの淋しさが湧いてきた。青春を青春たらしめるのはその不可逆性である、という話を聞いたことがある。あったはずの資格が剥奪されたこの時期に、観てよかった映画だと思う。立派な大人たちが若者に得意顔で今を楽しめとアドバイスするように、これから死ぬまで私は高校3年間を懐古し続けるのかもしれない。

映画を見終えた疲労感のせいか、周りの空間や時間がとてもずっしりと重く感じられる。こんな鮮やかなお話を見たら、ノスタルジックな気持ちになってしまうのは致し方ないことなのか。武蔵野線の車窓から覗く倉庫群と東京湾を見て、単発バイトに出ていた日々を思い出した。南流山のホームで吹く地下鉄の風が、物悲しかった。txの隣の席では、6歳くらいの女の子がお父さんに駅の読み方を教わっていた。ちょうど今、その2人は電車から降りていった。

 

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星組RRR

 

久しぶりに宝塚を観てきたよ。

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今回は、楽しみというより品定めでもするような、底意地悪い気持ちで向かったと思う。純粋なファンというより、批評家目線。自分がこれからも宝塚を観続けるかどうか決めにきた。

結論から言うと、多分もうあんまり観ないと思う。誤解のないように言っておくと、作品はとても素敵だった!お芝居もショーも。

ただ、どうしても観劇中事件のことがちらついて心から楽しめなかった。私はどうしても、劇団と過激なファンにおいては隠蔽体質があるように見えてしまう。こんな煌びやかな舞台を見せてもらっている最中でも、裏側には何があるんだろう、お金を払って来ている以上私もこの構造に加担しているのではないか、といった気持ちが湧いて来てしまった。

将来、私は何になるのかなーとぼんやり考えながら見ていた。宝塚に出会ってから、ずっと演出家になりたかったせいで、観劇中踏ん切りがついてから気持ちが宙ぶらりんになってしまった。

文学かなー。小さい頃から小説は書き続けてきたけれど、いつかこれも手放しちゃうのかな。小さい頃興味あったことはだいたい諦めて、今もうこれくらいしか残ってないのにね。科学者になりたかった。私には日本語しかないと信じているけど、理系に進む未来もきっとあったんだろうな。真面目なお勉強好きだし。

 

 

でも観に行ってよかった!ショーの最後、羽根を見たときはやっぱりわくわくしてしまった。

映像特有のダイナミックさをうまく舞台に落とし込んでてよかった。ナートゥがきたときは心が躍った。

彩園ひなちゃん、めぐあいで見つけてからひっそり応援してたから、見つけられたの嬉しかった。

 

100%楽しい気持ちでは観劇できなかったから、「見たくないならチケット見たいやつに譲れ」勢に見つかったら怒られるかもしれない。実際、私も熱中していたときはそう思っていたけど、今はその考えを押し付けるのは間違っている気がする。正規の手段と値段で買っている以上、どんな気持ちで来てもよくて、全然違う人が、一つの箱に押し込められて、一つの舞台で待ち合わせするのが劇場の醍醐味なのかもしれない。

 

宝塚の浮いたお金は、歌舞伎やら能やらの他の芸術にトライする分に回してみようと思う!どうせ雪組は見に行くと思うし、私の気持ち的にはプラスの意味合いで少し距離を置いてみることにする。

 

 

音楽

受験が終わってから、ひと月だけピアノ教室に通い直すことにした。小中と通っていたお教室で、久しぶりにピアノと向き合えるのは楽しい。しかも、曲がずっとずっと憧れていたショパンの「革命」だから尚更だ。

初回のレッスンで、先生曰くこの子はすごい!と藤田真央さんの本を貸してもらった。音楽を追求している人の考え方に触れるのはほぼ初めてで新鮮だ。そして、藤田さんのYouTubeを拝見したのだけれど(拝聴?)、あまりにも上手でびっくりした。今までも勉強中クラシックをはじめとしたピアノ曲を聞くことはあったけど、コンピュータの自動音声みたいな感覚で聞き流していた。けれども、自分の弾いたことのある曲(モーツァルトトルコ行進曲)を実際に演奏している映像とともに見ると、もう圧巻で言葉が出なかった。私は素人だから演奏の上手下手はわからないけど、まず私はこんな演奏できっこないし(当たり前)、少なくとも音の処理が丁寧で磨き上げられているのがわかった。

こんなプロになれるわけないが、どうやったら彼のように私もピアノを弾けるのか考えている。そもそも、私はこだわりすぎるきらいがある。完璧を目指そうとして、中途半端で投げ出してしまった部屋中に溢れている。参考書や、小説の書き出しや、他にも。。今回だってそうだ。まず「革命」の完成度を高めるにはショパンの生い立ちを勉強し直さなくちゃいけない。そのためには本を読まなくちゃいけない。あれも読みたい、これも読みたい、、譜読みだけしてろくに練習もしていないのに、とにかく指が自在に動く自分を想像している。頭の中はクリアで綺麗なのに、どうして生活の実際はこんなに汚いんだろう。部屋も。

 

 

 

 

 

こうしてこのブログも完璧を求めすぎてしまってきたから、もう頭に思い浮かぶままに言葉を書き連ねてみた。後々恥ずかしくなっても消さないように気をつけよう