Narrative

わが内に獣の眠り落ちしあとも 太陽はあり頭蓋を抜けて

ウンガレッティ

 

 

ウンガレッティ全詩集 河島英昭訳 岩波文庫

 

二次試験直前〜今日まで、ちまちまとこの本を読み進めていた。切羽詰まっていても、詩集なら息抜きにちょうど良いだろうと。

たくさんの詩の中から1番のお気に入りを見つけることだけを考えて読み進めた。かなり気楽に、陳列棚の中から商品を選ぶような感覚だった。

 

結局1つには絞れなかったけど、お気に入りの詩をいくつか引用してみる。

 

 宇宙

   海へ出て

   ぼくは

   そよ風の

   棺に入った

       1916.8.24  デヴェターキ

 

 遠く

   遠く遠く

   盲みたいに 

   手を引かれてきてしまった

       1917.2.15 ヴェルサ

 

 

イタリア文学を読むのは初めてで、詳しいことはわからなかったけど、共感できる詩が多くて読んでて楽しかった。世界史で覚えた地名がよく出てきて、こういう場面でも役に立つのか、とも思った。

 

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ビビッときた詩を書き留めながら読み進めたので、そのノートの写真も貼っておく。感想部分は、自分のこともたくさん書いているのでぼかしをかけた。

 

ラ・ジュテ

【1回目】

2/16 たった今、ラ・ジュテを観終えた。第一の感想は、すごいものを見た気がするけどそれがなんだかはわからない。映画の中の記憶世界のような、不可思議な世界に放り出された感じ。私の言語化能力と理解力が足りないからこんな粗末な感情にしかならないんだと思う。とりあえず人の意見を吸い込む前に自分の気持ちを書きたかった。今から映画好きの従姉妹にLINEして、考察や解説記事などを読みにいく。

本質

 

半年くらい前に書いた痛々しい文章です。当時頑張って書いたので恥ずかしいけどブログに載せよう。。

 

坂口安吾の日本文化私観を読んだとき、あのギラギラ豪奢な宝塚は安吾にとっては最悪なんだろうな、と思った。日本文化私観の内容を要約すると、真に必要なところでのみ美は生まれる、といったところだ。美を意識してなされた所から美は生まれてこない、らしい。

宝塚はあの化粧、舞台、衣装、所作、なにもかも意図的に美を追求して固められた、綺麗な嘘偽りの世界なのは当然のことだ。安吾が宝塚を観たことがあるのかどうかは知らないが、もし観ていたらけちょんけちょんに言われてたのだろう。

しかし、どうやら安吾は宝塚を観たことがあるらしい。後日気まぐれに、青空文庫を漁っていたとき、見事安吾が書いた宝塚についての文章を見つけた。(安吾の新日本地理  宝塚女子占領軍ー阪神の巻ー  1951)さっそく読んでみた。

結論から言うと、安吾は結構宝塚を褒めていた。

文章は

①異性を演じることの考察

②(当時の)宝塚音楽学校やファミリーランドについての記述

で構成されている。しかし、面白いことにあの宝塚の豪華絢爛なセットについては何一つ記されていなかった。

なにより、①異性を演じることについての叙述に感動した。見事に、異性を演じることの本質のみを抜き取り考察しているのだ。

以下本文抜粋

 むしろ、男が女役をやり、女が男役をやる、ということは、それも一ツの本筋ではないでしょうか。(中略)同性は各自の短所に着目し合って、その長所に対しては酷であり、イビツでもあり、ひねくれがちであるが、異性に対しては誰しもアコガレ的な甘ッたるい感情を支えとして見ているのは当り前の話。理想的な長所というものは異性だけが見ているものだ。
 長所に扮するということは芸術本来の約束から云っても正当なものであるし、同性に扮する場合は、扮しなくとも自ら一個の同性であるという弱身があるが、異性に扮するにはトコトンまで己れを捨てて扮しきる必要がある。これも亦、芸術本来の精神に即するもので、たとえ同性に扮するにもトコトンまで扮しなければならぬ。舞台の上に新しく生れた一人物になりきって、己れの現身

うつしみ

を捨てきらねばならぬ。舞台の芸術はそういうものだが、異性に扮することは、すでに出発からそのタテマエに沿うているのだ。
 自分が女であるために「女」に扮することを忘れている女優は多い。むろん男優もそうである。ダイコン役者はそういうものだ。
 そういうダイコン女優は自分の女を恃

たの

みにするから、舞台の上で一人の女になることもできないし、ナマの自分も出しきれない。だから楽屋ではずいぶん色ッぽい女だが、舞台では化石のような女でしかない。
 ところが、女形人形使いは、はじめから女になりきらねばならないのだし、ナマの現身がないのであるから、そもそも芸が女に「なる」女に扮することから出発する。これは有利なことでしょう。人間誰しも異性の長所というものは、本能的な理想として所有するものでもありそれが真善美の秘密の支えでもあるのだから、異性に扮し表するところの女らしさ、男らしさは全人格的な活動によって完成されるものであり、また純粋でもありましょう

確かに、異性を演じるときには同時に自分自身を疑うところから始めないといけない。恐らく安吾宝塚歌劇の本筋、最大の特徴を女性のみで演じる劇団であること、すなわち女性が男性を演じることだと見ているのだろう。日本文化私観と同じく、ずっと本質について述べていただけだった。凄まじい洞察力に慄いた。日本文化私観では美の本質について、こちらでは異性を演じることの本質について。日本文化私観を読んだとき一瞬でも疑った、私の想像力の貧しさが露呈して少し苦しい。

では、あの宝塚の豪華さは何者なのだろうか。あの世界観は、異性の長所だけを抜き取ったための理想的で非現実的な様相の延長にすぎない、と私は考える。女性によって演じられる男性の登場人物達が非現実的なために、セットも衣装も化粧も、現実とは全く違う形にしたほうがかえって調和するのではないか。ゆえに、宝塚の豪華絢爛さは上辺だけの特徴にすぎない。本質は、異性に扮することにある。

本文では男役しか触れられていないが、娘役も同じように私はすごいと思う。男役はどうしても女性が男性になりきるわけだから、不完全な存在になってしまう。それが男役の良さ、というのはもちろんその通りだ。しかしやはり、隣に究極の女を立たせることで男女の差が際立って、より観客には男役が本当の男性に近い存在にみえる。男役は自分を捨てるところから始めないといけないが、娘役も自分の“女性らしくない部分”を裏切る必要があるので同じように難しいと思う。

もし私に才能と容姿があったとしても、まず娘役にはなれない。私の適当な感覚の話だが、女性を女性性に閉じ込めるというのが、やはり窮屈に感じてしまう。もちろん女性を極めることは一切非難されることではないし、むしろ私は娘役のアクセサリーやドレスの捌き方を観るのが好きだ。それでも、現代のフェミニズムの風潮も多少影響しているのかもしれないが、女性が男性になる男役のほうがまださわやかな気配がある。まあ男役にもなれないが。

ちなみに、この後書かれていた当時の宝塚周辺の文章は歴史資料を読んでいる感覚で、上記の云々とはまったく違って感じられたので、今回はブログで触れないでおく。話がこんがらがるのと、私が全然2000年以前の宝塚を知らないために、まともな文章が書けないと思うから。

実はこの文章の主軸は徹底したヅカオタ叩きであるが、それに関してもだいぶ納得した。今のファン制度は腐ってると正直思うから、根本的に変えるべきだとつくづく思う。まあ一貫してヅカオタに対しての攻撃が続いて鬱ではあった。それに関しても話が拗れるのでここで切る。

下に本文のリンクを貼っておくが、そこそこ長いしヅカオタじゃない人が読んでもあんまりピンと来ないと思う。とはいえ、最初の異性を演じることについての部分はそれなりに面白いかもしれない。

https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/45908_37864.html