Narrative

わが内に獣の眠り落ちしあとも 太陽はあり頭蓋を抜けて

ブログ

このブログは文章が書けるようになるまでの雑記帳なので、読み返して直したくなった表現や誤字もそのままにしている。

最初に投稿した文章なんて、もう目も当てられないし、何なら私はもう宝塚が好きではない。それでもももっと年月が経てば、自分の中で大切な遺産になることはわかっているので消さずに残しておく。(もう捨ててしまったけれど、小4のころに書いた小説を今でも無性に読み返したくなるときがある。)

現時点で上手にかけているのはオッペンハイマーかな。3時間椅子に縛り付けられて作品に触れるという鑑賞方法は、こちらが受け取るものも多いのかもしれない。

 

大学に入ってから、私よりよっぽど読書量をこなしていて、表現の上手な同級生に会う機会が増えた。嬉しいと思うと同時に悔しくなる。もっと読書経験を積んでたくさん書かなくちゃ。そう思うと同時に、LA演習で言われた、「貧相な文学観」という言葉が脳裏をよぎる。私は自分が言いたいことをぴったり伝えられる作品を作るために、本を読んでいる。私にとっての読書は、炭水化物のようなものだ。そしてこの動機には「教養」とか「感受性を豊かにする」といった内容が含まれているのも事実だ。きわめて社会的な、承認欲求のままに進んでいる。いつか座礁する日が来るのだろうか。そもそも、国語の授業でしか小説を書けなかった私がこんなことを書き連ねていたって所詮ただの絵空事なのではないか。大学生作家なんてやまほどいるのに。私と同じくらいの年月を生きて、その間にすでに走り出している人がいる。

表立っては言っていないけれど、やっぱりものを作る仕事がしたい。私も進まないといけない。小説家になりたい。