「大学」は街へ出るべきだ、と「あゝ、荒野」では書いてあるし、田中角栄は、「東大を出た頭のいい奴はみんな、あるべき姿を愛そうとするから、現実の人間を軽蔑してしまう。それが大衆軽視につながる。それではダメなんだ。そこの八百屋のおっちゃん、おばちゃん、その人たちをそのままで愛さなきゃならない。」なんて言ったみたいだし。私が書きたいのはそういう市井に根差したお話であって、頭でっかちの文学かぶれが吐き出すたばこの煙みたいな作品じゃないんだ。
お茶大は真面目にに勉強させてくれる大学で、落ち着いているし気に入ってるんだ。外部の人が入れないから、犬の散歩をしているおじさんや子供を学食で走り回らせる家族なんていない。「誰にも邪魔されない私の居城」みたいな感覚があって、とても心地いいよ。だとしても、それじゃダメみたい。
自分のいまの立場が安定したものであると同時にそれを自負しているから、私が文学を志す起点となったやさぐれた中学生の当時とは世間に対する態度も変わってしまった。15歳のときは大衆を恵まれた存在として敵視していたけど、ここ半年で急に見下すようになった。就職セミナーの張り紙を見つければ顔をしかめるし、自己啓発本が本屋に並んでいれば必ず文句を言う。5年後恥ずかしくなることがわかるくらい自己陶酔している。そうとわかっていても止まらない。
今のショート動画タバコ酒エモカルチャーは気持ち悪いし、そんな世俗に迎合しない自分はかっこいいと思ってる。寺山も角栄も昭和の人だし、当時の世俗は彼らにとってもっといきいきとして見えたのかな。とはいえ、私は昭和のとりわけ女性蔑視の風潮が大嫌いなので(寺山のやったことは大好きだけど、女性表現に関しては嫌悪感を抱いている)、それにも迎合できない。私の尊敬する人たちはみんな昭和の人だけれど、あんまり傾倒できない大きな原因にそれがある。(過去のことだし私が私の価値観を形成したのもこの時代に生まれたからなので、批判する意図はないよ)
昔、酒に酔った祖父が居間の書架を「あれは田中角栄が書いたのだ」と言って自慢していたけれど、今目を凝らしてみたら「栄作」って書いてある。でも多分栄作ですらないのだと思う。そういう適当言う人たちのご機嫌取りに挑戦しようというのかな。
地方テレビの売れ筋本ランキングコーナーで、「成瀬は天下を~」が1位だったのだけれど3位がターゲット1900で面白かった。地元の書店はその週の売れ行きをテレビ局に報告するときに、単語帳もカウントするんだね。
一昨日近所のお寺のお庭の中で腕にとまった蚊を叩き殺したとき、寺で殺生をしたことに罪悪感を覚えた。今茶の間の仏壇のそばでこれを書いているけれど、さっきコオロギがそばにいたので同じようにした。